45歳で自然妊娠した妊活メンターEHKOのブログ

【命の学び】白い犬

ライターの世界 創作物語り

     白い犬

         
 
 ある町の外れの林の奥に、一人の木こりが住んでいた。
 
 木こりは、毎日小さなトラックに乗り、木を切りに林の奥へと向かう。そして、きこりが生きていくために必要なだけのわずかな木を切り倒すと、さらに細かく切り刻み、トラックの荷台に積む。そして寄り道をすることなく家路に着く。それから、ささやかな夕食を終えると、一人静かに眠りにつく。
 
 これが、きこりの生活のすべてだ。家族も、ときどき会って世間話をする友人もいない。きこりは、そんな暮らしの孤独感を、むしろ積極的に好んでいた。焦燥感もなかった。誰にも邪魔されることなく、一人で完全な一日の暮らしを組み立てて、そのこじんまりとした、強固な型に自分の一日を上手くはめ込む作業が心地よかった。
それは、幼子が、手になじんだ遊びなれた木製のバズルを、一つ一つ丁寧に、決まった順序で、決まりきった隙間に、真剣な眼差しではめ込む姿とよく似ていた。
 

 その日も、いつものように小さなトラックに乗り、林の奥へとトラックを走らせていた。その道は、舗装されていない土と小石がむき出しになっている、蛇行の続く薄暗い林道だった。背の高い木々によって、ほとんど日が差し込むことのないその道は、所々ねずみ色の粘土質の土が泥濘るんで、トラックのタイヤにまとわりついた。足元のタイヤが泥濘に絡められると、きこりはまるで自分の足を誰かにとられるような感覚に陥った。それはきこりにとって、タイヤを媒体として誰かと触れ合っているような気持ちになれる唯一の時間だった。その真上には、涙をこらえているかのような重たい鉛色の雲が、林の深い緑の隙間を埋めていた。

「一雨きそうだな」
きこりはそうつぶやくと、右足先の踵に力を加えた。
通り過ぎる平凡な雑木林の景色が一層早く流れ過ぎる。きこりの頭の中は、今朝庭に干した洗濯物のことで大半が埋まっていた。目に映る景色は、もう目隠しされても平気なほど体に染み付いている。ハンドルを握る手に余分な力はなく、水晶体に映り込む景色を視神経が軽くいなしながら、きこりの脳は、もっぱら帰宅した後の自分の行動を、忙しくシュミレーションしていた。

 ところが、見慣れたはずのいつもの路上に、いつもとは違う「なにか」を彼の視神経が捉えた。きこりは慌てて前方を凝視した。すると、数十メートル先の路上に、白っぽく柔らかな輪郭に生暖かさを帯びた、大きな固まりを見出した。
 
 きこりは一瞬戸惑ったが、脇道などない細い一本道である。トラックの速度を大幅に緩め、ゆっくりとその白い物体に近づいていった。  
 数メートル手前まできて、その白い物体が、確かに生きていることに気づいた。垂れ下がっていて見えなかった大きな太い首が、ぐうと持ち上がり、頭部が現れたのだ。
暫くの間は、その生き物は、子牛か子やぎのように見えた。しかし、だんだんとそれに近づくにつれて、徐々に目鼻の輪郭をはっきりと捉えることができた。

 その動く白い生き物は、大きな痩せた犬であった。首には、上質な革でできた青空色の首輪が、しっかりと巻かれていた。
 
 木こりは、犬の三メートルほど手前でトラックを静かに止めた。そして、そっとドアを開けた。犬は、逃げる素振りも威嚇する様子も見せなかった。
 
 きこりは、つま先からゆっくりと降り立ち、背中を少し屈めて、運転席のドアを盾にしながら、その大きな犬の様子をしばらくじっと観察した。犬はまるで壊れた電動の振り子のように、頭をゆっくりと左右に振りながら、こちらを気にする様子もなく、悠然と横たわったままだった。よく見ると、毛はガサガサでまるで使い古したタワシ。さらに、肘や背骨の付近に、ところどころ毛の無い、うっすら紅色を帯びた、楕円形の怪我を負っていた。また、後ろ足からも、少量ではあるが鮮紅の血を垂らしていた。
 
 木こりは、即座に迷い犬だと直感した。町からここまで迷いながらやってくるうちに、どこかで脚に怪我を負い、歩けなくなったのだと推察した。
 
 怪我を負っている誰かの犬を発見した以上、とにかく保護するしかないだろう……。きこりは思った。特段、動物が好きでも嫌いでもないきこりであったが、可能な限り自分の良心に従って生きることにしているきこりは、そのときの自分の良心の指示に素直に従い、その犬を助けることにした。 
 
 しかし、自分の良心に従って助けるには、その犬はあまりにも大きすぎたし、薄汚れていた。大きな丸い瞳には、邪気は感じられなかったが、覇気も感じられなかった。うっかり触れようものなら、噛みつかれるかもしれない。そんなきこりの恐怖心も、やはりきこりの良心が瞬時に包み込んだ。
 
 きこりは、犬の背中を優しくなでてみた。嫌がる様子はなかった。相変わらず振り子のように頭を左右にゆっくりと揺らしている。いつまでも撫でていると決意が鈍ってしまいそうだと感じたきこりは、そのまま両手でえいと犬を抱きかかえ、トラックの荷台へ乗せた。一瞬、抱きかかえたきこりの腕に、薄い皮を破って露になった犬の骨が突き刺さる妄想が、脳裏をよぎった。そんな想像をしてしまうほど、犬のカラダはやせ細っていた。きこりは、そのまま町の動物病院へ連れて行った。
 

 よく見ると、犬の背骨は大きく湾曲していて、まっすぐ歩くこともままならない程だった。楕円形の怪我のようなものは、長らく同じ姿勢で寝かされていたことによってできた床ずれだった。相当な老犬であることも判明した。どうやら迷い犬ではなく、捨て犬だったようだ。この老犬ので体力では、林の奥までたどり着くことなど、到底無理なのだから。
 

 きこりは医師にこの犬の治療を頼んだ。ところが、一通り犬の検査をした医師は、犬の治療を丁重に拒んだ。目も悪く、耳もよく聞こえていない老犬。頭もかなりぼけているであろうその誰も知らない老犬は、一時の感情で助けられるほど容易い病状ではないということを、医師はきこりに静かに伝えた。
 
 木こりはその病院を後にして、治療を受け入れてくれるそうな他の病院を探した。その道の途中、老犬は荷台の中で何度か失禁した。二件目の病院に到着したときには、それほど広くはない荷台のあちらこちらに、老犬の黄色い尿の池が出来上がっていて、老犬の下半身も自身の尿にまみれてかなり濡れていた。しかし、老犬はそんあ粗相など全く気にとめる様子もなく、相変わらず泰然と頭を左右に振っている。この光景が、さっきの医師が真剣な眼差しできこりに訴えていた現実を、端的に表していた。
 

 二件目の病院でも、全く同じ理由で断られた。それどころかその医師は、面倒だから元いた場所に置いて逃げるようきこりにアドバイスまでした。きこりは、やるせない思いに胸が押しつぶされそうになった。
 
 二件目の病院の玄関を出て、犬と一緒にトラックを止めている駐車場へと向かった。きこりの足取りはひどく重かった。
 トラックの荷台までたどり着き、犬を荷台へ運ぼうと抱きかかえたそのとき、犬が激しく嫌がる素振りを見せた。今までにない力で上半身を大きく左右に振り、きこりの腕を退けようとしたのだ。
 
 自分の浅はかで偽善的で刹那的な行動に、これ以上付き合いたくないと老犬が訴えているかのようだった。

 木こりは助けようとした自分を責めそうになった。しかし、その疑念は杞憂だった。木こりが手を離すと、背骨の曲がったよぼよぼの老犬は、鶏ガラのような骨ばった足を何度かばたつかせ、自力で荷台に上がることを試みたのだ。しかし、その想いも虚しく、数秒もしないうちにバランスを失い、地面に叩き付けられるように倒れて込んでしまった。
 木こりは、この老犬の胸の中に、まだ自立して生きたいと望む気高いプライドのようなものを垣間見たような気がした。胸が締めつけられた。やはり、助けてやりたいと思った。

 三件目の病院の医師は、この犬の治療を条件付きで快諾してくれた。その条件とは、もしも飼い主が現れなかったときには、木こりがその犬の新しい飼い主になるというものだった。木こりは、その条件を即座に飲んだ。そしてきこりは、できる限りの治療をこの犬に施すように医師に頼んだ。
 

 

 
 老犬はそのまま入院し、治療できるところはすべて治療してもらい、その数日後には再び小さなトラックの荷台に乗せられて、木こりの家に到着した。
 木こりは、犬が入院している間に、犬のための小屋をこしらえた。傷が癒えるまでは犬の様子がすぐにわかるようにと、小屋を室内に置いた。きこりは、その小屋の前まで犬を抱きかかえて連れて行った。少しぼけている老犬。きこりの声かけにもほとんど反応しなかった。相変わらずゆっくりと、まるで壊れたオルゴールのように、頭を左右に揺らしながら横たわっているだけだった。
 

 木こりは、その犬に名まえをつけることにした。しかし、老犬にはもう名まえを覚える力は残っていなかった。それでも木こりは、木こりが気に入ってつけたその名まえが老犬の耳に届くように、いつもよりも大きな声で呼び続けた。
 
 排泄もやはりうまくいかなかった。トイレとは別の場所で粗相をすることもしょっちゅうだった。あるとき、犬を家に置いて仕事に行って帰ってきたら、小屋に括りつけておいた鎖を引きちぎって、自由気ままに徘徊したのだろう、部屋中に糞をまき散らしていた。
 

 その一件以来、木こりと犬はいつも一緒に過ごすことになった。

 木こりは、くる日もくる日も犬の世話を丁寧にこなした。老犬が現れる前の、一人で完結できる心地よい生活の型は、原型を留めることができなくなっていた。しかし、今の木こりには、そんな型の崩れを憂慮する暇すらなくなっていた。

 
 やがて犬は、少しずつまっすぐ歩けるようになっていた。家の周囲を散歩することもできるようになった。時々、ほんのわずかな距離ではあるが、若い頃を思い出したかのように、小走りで走ったりもするようになった。全く動かなくなっていた耳も、名まえを呼ぶと、ほんの少しだが耳の先端を動かせるようになっていた。
 

 そんな暮らしが数ヶ月過ぎたある日、木こりは、ふと、老犬にお手をするよう声をかけてみた。

 それはほんの冗談のつもりだった。以前、誰かに飼われていたことは間違いないのだが、もうすっかり頭がぼけている犬が、一体何を覚えているというのだろう。
 
 きこりが老犬の耳元で、「お手!」と、やや大きな声で言ってから三十秒程経過した。

 何も起きないとわかりきっていながらも、木こりは少し残念な思いにかられながら、目線を犬から離そうとした。
とそのときだった。老犬の片方の前足が、小刻みに震えながら、ゆっくりと、しかし確かに、垂直方向に持ち上がったのだ。

 木こりは我が目を疑った。思わず息を飲んだ。嘘だと思った。その片足は、地面から十センチほど上がったところで静止した。

 それを見て、嘘ではないという確信に変わった。お手をしたのだ。老犬は覚えていたのだ。昔の飼い主に教えてもらった、お手を。その記憶をきこりの前で披露してみせたのだ。
 
 木こりの瞳から、大粒の涙が一気に溢れ出した。何十年間溜まっていた、涙のダムが決壊したかのように、後から後から流れ続けた。

 木こりは、老犬の首元を強く抱きしめた。それから長い間、木こりの頬を流れる続ける涙の川が枯れるまで、ずっとずっと抱きしめ続けた。

 一方、老犬は、相変わらずゆっくりと、まるで壊れたオルゴールのように、大きな頭を左右に揺らし続けていたのだった。

  
ジージ( 享年 推定16歳 2011年7月1日永眠 )